History

大阪自彊館の歩み

大阪自彊館のはじまりは、「何とかならぬか」でした。
制度も仕組みも整っていない時代に、住まい、健康、生活の立て直し、人が社会ともう一度つながるために必要な支援を、現場で一つずつ形にしてきました。

そして100年以上。救護・高齢・障がい・医療、地域との連携へと支援の範囲を広げ、困りごとが途中で途切れない“つなぎ直し”の仕組みを築いてきました。

いま私たちは、地域の支え手として「受け止め、立て直し、地域で暮らし続ける」までを循環させ、誰もが孤立しない地域づくりに貢献していきます。

大阪自彊館は、
社会の「見えにくい困難」が集まる場所。
だから、未来の福祉が見える。

110余年のあゆみ

大阪自彊館は1912年の創設以来、社会の変化とともに福祉課題と向き合いながら、支援の領域を広げてきました。
救護から高齢者支援、障がい者支援、地域福祉へ。
時代ごとのニーズに応えながら積み重ねてきた実践の歴史を、110余年の歩みとともにご紹介します。

明治期〜大正期

1

誕生と事業の萌芽

「何とかせにゃ」の一声から
―大阪自彊館の誕生と事業の礎

明治期に入った日本、維新後も「戊辰戦争」、「西南戦争」といった内戦が続き、
日清・日露戦争に勝利した後も欧米列強がアジアに迫り来る状況であった。
日本は足早で近代国家への道を歩み始めるため、富国強兵・殖産興業に励んだ。
戦勝国日本の工業は一時的に急速な発展を遂げるが、軍事力によるアジア進出のためには、
軽工業・重工業から重化学工業へと、さらなる産業構造の改造が必要であった。
しかし、戦後不況に見舞われた経済は沈滞していた。

長町解体と釜ヶ崎のスラム化

大阪の堺筋に沿う「長町」といわれる木賃宿の連なりは江戸時代に形成された。その不衛生さ故に2000戸以上の解体移転計画も試みられたが、地元の利害関係が絡まり、延期の末に頓挫してしまった。
日清戦争後の明治30年、大阪市は商工業の発展に伴う工場・住宅確保のため第1回市域拡張を行い、翌年には独自の市制を敷いた。
大阪府は府令「宿屋営業取締規則」を制定、拡張された市域内での木賃宿の営業を不許可とし、特定の接続町のみ許可する方策を取った。この規則により木賃宿は徐々に市外へ移り、長町の住民も自然退去の形で移動、また、明治36年開催の第五回内国勧業博覧会にあわせ、居残る長町長屋の住民にも立ち退き命令が下り、退去させられた人々は長町裏といわれる街道筋の裏側や、市域外となる今宮村の木賃宿に流れ込んだ。

細民調査

中村 三徳

多くの戦死者を出した日露戦争後も、国民には増税負担が求められた。
国は困難な経済情勢に対処するため、奢侈に流れる風潮に緊縮を呼びかけ、
明治41年には「よろしく上下心をいつにして…華を去り実につき、荒怠相戒め自彊息まざるべし」と謳った「戊申詔書」を発布、
国家発展のため国民に節倹と勤労を呼びかけた。これをきっかけに地方改良運動も活発化し、
国民生活の実態や貧困状態の調査がすすめられた。こうした情勢がその後の大阪自彊館誕生と命名の基となる。

明治44年、内務省は第1回細民調査を東京市で実施、翌45年に第2回調査を東京市と大阪市(難波警察署管内)で行うため、
明治44年の春に内務省視察団が西成郡今宮村にある釜ヶ崎を視察した。
汚臭に包まれ、道とは言いかねるような「ぬかるみ」の路地を歩むうちに、内務省警保局長 古賀廉造氏から「こりゃいかん、何とかせにゃ。」と声が上がった。
視察一行には、後の六代目大阪市長となる大阪府警察部長の池上四郎、大正7年に方面委員制度を創設した監獄学の権威といわれる
小河滋次郎博士も同行しており、その案内役が保安課長の中村三徳であった。

大阪自彊館の誕生

視察から数日後、中村三徳保安課長は池上部長から、
「中村君、君がやれ」と命令を受けた。
予算の後ろ盾も無い状態で、三徳は警察官の勤務を続けながら、
衛生的で規則正しい生活を通して自立更生を目指すための施設を設立することになった。

当時の警察業務の分野範囲は、治安・衛生を含む「貧民救済」といわれる社会事業的な内容に関わることも多く、広範囲に及んでいた。
明治31年3月に大阪府巡査を拝命した三徳は、安治川水上署を皮切りに、
明治37年12月に警部となり曽根崎署に勤務。
翌年には警察部衛生課勤務を拝命し、産婆試験書記、薬品看視員、検疫委員、
畜牛結核検査員、防疫書記、獣疫検疫委員、外島保養院慰藉会評議員なども歴任、明治43年11月には保安課長を拝命していた。

これまで警察官として勤務してきた中で経験した様々な事象、
これらを社会問題として捉えていた三徳の心中にはすでにその解決策が描かれて
おり、大阪自彊館はそれを具現化するために生まれたといえる。
当座のお金は慈善興業の収益や寄付金などで賄ったが、
土地や建築資材の調達・普請代などは、全てに亘って周りの人の善意に頼った。
経営資金も借金であった。

こうして明治45年6月25日、西成郡今宮村に木造二階建て(甲・乙館)、
定員150人の私立 大阪自彊館が産声を上げた。
事業の創始と共に防貧救済事業、保護救済の隣保的施設を計画、共同宿泊所は福祉増進の大方針として、「衛生・能率・教化」の三大要綱を根幹とした。
勤勉・節約をモットーに、シンボルマークは「三ツ星と月」、
これは「晨(あした)に星を戴いて出で、夕に月を踏んで帰る」ことを意味した。1年後の大正2年6月には財団法人としての認可を受け、
7月には大阪市天保町にある大阪府立消毒所を借り受け、主に港湾労働者の宿泊保護を行う築港分館(定員300人)を開設した。

事業展開の青写真と小河滋次郎博士

大正3年6月、三徳は難波警察署長を拝命し、翌年5月から6月にかけて地域住民の「生活状況実地調査」を行った。
この調査は警察署の重要な施策の一つで、難波署は署長自らが先頭に立って行うことが恒例化していた。実地調査後、三徳自身が参考資料として保存していた調査統計が小河博士の目に留まり、博士の勧めによって「救済事業研究会」で講演することになった。
大阪府監察官になっていた三徳は、「下層民の生活情態に就て」と題した講演を行い、次のように述べている。
「行政と警察とはやや縁遠い関係にあり、救済は警察本来の事務に属さないとしておきながらも、いざ実際に警察事務を執行する時点で、しばしば感化や救済を要する避けられない現実があり、どう対処してよいものか判断に苦しむ場面に出くわす」。
冒頭でこう話した三徳は、救民に対する警察の限界性を述べ、『貧民は何故に貧民たることを脱するあたはざるか』と、その原因を探究し、講演の締めくくりとして次のような救済方法を挙げた。

「衛生的食糧を安価に供給し、例え間取りが小さくとも理想的な長屋を建築して貸与し、
これと共に消毒した衣服を簡易に購入できることが下層民救済の最緊急必要事である。
できれば低利で労働資金が融通され、物品が貸与される方法の確立と実行があればこの上ない。
これらの内の例え一つでも施設として開設されることを心から祈る。」

大阪自彊館の事業の青写真とも言えるものであった。
これらの救済方法一つ一つの実現を検証してみよう。

物品が貸与される方法の
確立と実行(授産事業)

大阪自彊館は開設当初から職業紹介を行っていたが、さらに少しでも仕事をしながら自立できるようにと、授産事業にも着手していた。
先ずは大阪市から払い下げの形で12台のミシンを導入し、女性を対象に縫製作業を、
男性には荷車の賃貸事業を開始した。荷車は難波警察署からの払い下げ12台と新規に29台を購入し、1日5銭の使用料で荷車を貸し出すことで、「徒手空拳の浮浪者に勤労の武器を供給」した。収入が多いこともあって労働者からの人気も高く、大正8年の事業休止までに延べ約2万6,000人が利用した。また、大正13年にはゴム爪掛加工を、昭和8年には失業者救済授産事業として、生業部において洗束子、刷毛、月桃マット織などの製造加工を行った。

衛生的食糧を安価に供給・消毒した
衣服を簡易に購入

日用品廉売部・実費廉売所から公設市場へ

大阪自彊館は創立当初から日用品の廉売部を併置していた。施設利用者に対して、収入の増加ばかりを考えるのではなく、消費に対しても注意を払うことを指導した。幾分でもその生計に余裕を持たせ、廉売部で働く施設利用者には収益の一部を給与して貯金を奨励し、自立更生を促していた。また隣保事業として、付近の貧しい住民に日用品その他の物品を廉価で供給することも設置目的の一つであった。

大正6年から翌年にかけて、第1次世界大戦等の影響もあり物価が暴騰し、国民の生活を脅かし始めた。これに乗じて暴利を貪る小売業者が出てきたため、こうした者の自覚を促すとともに、貧しい国民の「生活緩和に資する」という趣旨で、大正6年12月から大正7年10月にかけて、朝日橋、天王寺、九条、玉造、曾根崎、難波、鶴橋、今宮の市内8カ所で、米や醤油、木炭等を廉価で販売する「実費廉売所」・「分配所」を最長9カ月間にわたり開設し販売を行った。これが規範となって公設市場設置の運動が広がり、公営の日用品販売市場として市内4カ所に公設市場が開設された。

簡易食堂

簡易食堂は大正7年1月に東京市芝区烏森町において、社会政策実行団が「平民食堂」の名で開設したのが最初とされる。
米価が高騰する中、当時下層労働者と呼ばれた人々の就労を支えるための実費食堂開設を詮議していたところ、井上重造氏の援助により南区日本橋筋東一丁目の土地102坪を無償借地できることになり、大正7年6月に「第一簡易食堂」を開設した。前日の開堂式には林大阪府知事、小河滋次郎博士、柴田内務部長らが臨席、総代として小河博士が祝辞を述べ、シカゴの「ハル ハウス」を経営の例として紹介した。

第一簡易食堂は71坪で客席が100席あり、1食が平均10銭であった。米騒動が起こる直前の開店で、米価は暴騰している最中であり、開設翌日から1日平均1200~1300人の入客があった。
大正7年8月には大阪市に米騒動が波及、大阪市も応急対策として西区幸町、九条、北区天満の3カ所に公立簡易食堂(幸町食堂、九条食堂、天満食堂)を設置すると共に、市内各所で米の廉売を行った。大正8年には西野田食堂、築港食堂も開設し、大正10年には市内7カ所に広がっている。
大阪自彊館が食堂を運営した期間はわずか3年半であったが、延べ70万人あまりが利用した。

例え間取りが小さくとも理想的な
長屋を建築して貸与(家族寮)

開設当時の大阪自彊館の設備は二階建て宿舎2棟、
付属の建物として炊事場・手芸室・納屋・事務室・売店・職員舎宅・便所等9棟の計11棟で、定員150人であった。宿泊料は布団と入浴付で1泊5銭、食堂は飯一盛りが3銭5厘、副食のおかず一皿2銭、味噌汁1銭、漬物一皿5厘で、
1食が凡そ7銭、1日3食で20銭余りであり、月額7円50銭で宿泊生活ができた。

開館当初は主として独身男性の利用を目的としていたが、
妻子同伴者の宿泊を切実に願う者も多くおり、子どもを抱えながら、
また夫婦のどちらか一方や家族が病気のために、看病をしながら生活するという家族世帯も多数あり、単身の労働者よりも生活の困窮度合が深刻であったため、
創立当時の事業報告書にも家族寮の必要性が挙げられていた。

このため大正8年11月に本館乙館宿泊室の一部を改造し、家族持ち用として間貸室11部屋の供給を開始した。部屋は六畳1室に二畳の押入、電灯が一つで1日35銭であったが、需要に対応しきれずにいた。こうした家庭の子供たちの心身に与える将来的影響を憂慮した三徳は、政府の低金利資金2万5千円を借り入れ、工費3万円を投じて簡易貸間2棟を建設、大正13年6月に36世帯が生活できる家族寮「向上館」を開設した。釜ヶ崎にはこうした住居が不足していたため、閉鎖される昭和38年までほとんど満室状態であった。

できれば低利で
労働資金を融通(公益質屋・少額生業資金貸付)

公益質屋は営利を離れ、専ら公益を目的とするもので、
初期にできたのは大正元年10月創立の宮崎県南那珂郡細田村の細田村営質庫、大正8年12月に財団法人東京府社会事業協会が設立した公益質舗武蔵屋などがある。大阪市は大正13年11月に「公益質屋に関する条例」を施行し、大正13年12月に天六質舗、大正14年9月には西成区内に市設今宮公益質舗を開設している。
昭和9年3月、大阪自彊館は一般営利質屋の強い反対を押し切って、大正区泉尾北村町に「泉尾公益質屋」を開設し、5月から事業を開始した。財団法人としては大阪市内でも唯一のものであったが、昭和15年9月に大阪市へ譲渡した。
また、大阪自彊館の事業からは離れるが、三徳は大阪毎日新聞 本山彦一社長の要請で大正10年2月に嘱託となり、財団法人 大阪毎日新聞慈善団に主事として就任、大正15年に警察官または方面委員の手を経て、失業者に少額生業資金を無利息無抵当で貸し付ける事業を創設している。

吉村敏男の就職と保育所の開設

大正7年12月、中村三徳は24年間務めた警察業務を離れ、第五代大阪府中河内郡長に転出していた。同じ大正7年4月、吉村敏男は25歳で中河内郡曙川村にある由義神社の宮司となり、神官を務める傍らで曙川村役場に勤務していた。村長から託された第1回国勢調査事務の仕事が中村三徳の目に留まり、運命の出会いとなる。
大正10年5月、大阪自彊館の運営と大阪毎日新聞慈善団での仕事に奔走していた三徳は、大阪自彊館の運営を任せる後継者に、敏男を主事として呼び寄せた。

大正15年6月、敏男は前年から計画立案していた隣保事業としての各種相談所と、大阪自彊館保育部による定員100名の保育所を館内に併設した。
相談所では家庭の心配事を手掛けたが、相談者の多くに共通することは「家庭の恩恵を知らないことが最大の不幸の源である」ということであった。そこで、共同宿泊所の事業に加えて幼児昼間保育にも取り組むことになった。

当初は家族寮「向上館」の親が働きに出やすいよう子供達を預かるつもりでいたが、周辺に保育所が無いため近隣の子供も世話して欲しいという要望もあった。満4歳から小学校就学前までの子どもを対象とし、敏男が園長を務めた。開設当初は「共同宿泊所に子どもを預ける」ということで園児募集への反応は鈍かったが、敏男自らが「命がけで子どもを守る」と真摯に語って歩き、月2円の保育料以外は一切不要ということが知られると、定員を上回る応募があった。

隣保事業としての保育部の任務は幼児の教養にのみ偏重せず、寧ろ幼児を通じてその家庭と連絡を保ち、家庭教育的機能の発揮と、家庭生活の改善にまで手を延ばして効果を及ぼすことを目的としていた。保育室の他に遊戯室、幼児図書室、館内運動場も設置し、太平洋戦争の終戦まで19年間に延40万人の幼児を世話した。

昭和初期〜戦前

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事業の拡充と成熟

戦火に揺れた時代―事業の成熟と終戦

成人教育講座の開設

大正14(1925)年から昭和3(1928)年に至る3年間に、
大阪自彊館に比較的長く在籍していた1085名について教育程度を調査し、
義務教育を修了していない者が579人、内全く教育を受けていない者59名、尋常小学卒業者260人という結果が出た。
当時の肉体労働者は1日10~12時間の労働で、15歳前後の少年が10時間働いての賃金は50銭から60銭であった。

敏男は「無学歴、低学歴が人生の一大脅威である」として、施設利用者や「無産大衆」と言われた人々に対する教化の必要性を説いた。
そして昭和2(1927)年の1月21日から3月29日まで、労働者教育の第1回成人講座を定員70名で開講した。講座は毎週火曜日と金曜日の午後7時から9時までの2時間、20回計40時間を1期とし、中村三徳の御詔勅謹話、牧野虎次氏による公民道徳、佐伯祐正氏による社会思想など、10講座を広く無料開放した。しかしその後は、戦争の進展に従い、遺家族を集めてのミシン講習会や、授産所を併設して地域公益に奉仕することになった。

太平洋戦争

昭和15年4月から米、味噌、醤油など日用必需品10品目が切符制になるなど戦時体制が高まる中、大阪自彊館は紀元二千六百年奉祝式典に際し拝受した特別御下賜金を基に、定員110名の本館増築工事を行った。しかし、戦争の激化による応召等の関係や、時局と共に自由労働者の懐具合も良くなり、施設利用者は激減した。そこで近くの製鋼所工員のための精神修養道場や、朝鮮半島からの徴用工200人のための「半島人移入労働者保護訓練所」を開き何とか戦中を凌ごうとした。しかし、昭和19年の夏以降は付近住民も疎開離散し、昭和20年3月の大空襲以後はほぼ閉鎖状態となり、8月の終戦で法人事業も休止せざるを得なくなった。「問題解消のためには、焼いてしまわねば根本解決は不可能」とさえ言われた「釜ヶ崎」も焼野原であった。

終戦〜昭和40年代

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戦後復興と施設の多角化

焼け野原から立ち上がる―戦後復興と施設の多角化

保護事業の開始

大阪市内では空襲による罹災者などの生活困窮者が街にあふれた。駅や市場などに集まった人々は、地下道や軒下で野宿生活をしていた。昭和20年10月5日時点の大阪市による調査では、戦争被災者がおよそ35万人、うち救済を必要とする人およそ3万人という状況であった。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、被災者への救済対策を日本側に急がせていた。

昭和20年9月17日、大阪府厚生課長の私信を持った課員が大阪自彊館に駆け付けた。大阪駅を整理し戦争被災者達を保護することになったが、施設が被害を受けて受け入れ先が限られるため、大阪自彊館にも成人男性の保護に協力願いたいという内容であった。
他にも「大阪駅市民案内所(後の梅田厚生館)」、「万世母子寮」、「関目寮」、「勤労者宿泊所」などの施設が設けられ、後の生活保護法の施行に伴い「民生委員」となる方面委員も保護に活躍した。

大阪自彊館では10月1日から200名の保護を開始したが、衛生面を考慮して入所時に散髪、入浴、健康診断を実施、その結果入所したうちの8割ほどが栄養失調の状態であることがわかった。
給食にも困難を極めたが、大阪府から特別の配慮を得て、治安米の配給や草粉のパンの特配を受け、冬に入ると大阪府・市から古毛布の贈与を受け利用者の露命をつないだ。

その後、戦災者、復員者、刑余者などの利用者が日々増加してきたため「3ヵ月卒業」を謳い、健康を回復した者は「黒ダイヤ戦士」として九州や北海道の炭鉱へ送り出し、入れ替わるように新しい人が入所するというくり返しが続いた。
まだ戦後の混乱が続いていた昭和20年12月、釜ヶ崎に高松宮宣仁殿下が御来臨された。殿下は社会事業に強いご関心を寄せられ、この当時も各地にある施設や生活に困窮する人が多く住む地域をご視察された。大阪自彊館はその後、殿下には昭和25年11月、昭和43年には殿下、妃殿下のお二人のご来臨を賜った。

昭和21年に、大阪府は民間の4施設を臨時引揚寮として買収し240室を整備、11月には厚生省が定めた婦人保護要綱に基づき、布施市に「成美寮」、翌22年6月には西成区に、日本救世軍が受託する「朝光寮」を開設した。
大阪市社会部も「大阪市立今宮保護所」で保護を行っていたが、昭和20年9月に閉鎖となった。このために大阪自彊館にも利用者引き受けの依頼があり、翌年の9月に最後まで残っていた70名を保護した。

更生保護に尽力

政府の施策も整備され、生活困窮者緊急援護要綱の実施に続き、昭和21年10月に旧生活保護法が施行された。この年の7月には、中国大陸への兵役から復員した、吉村敏男の長男、吉村靫生が大阪自彊館に就職した。保護事業に奔走する敏男の姿を見て、「このままでは父が過労死するかもしれない。」との思いから、親孝行のつもりでの就職であった。
戦前までの大阪自彊館は、当時「浮浪者」と呼ばれた人々や刑余者の保護を主体とし、昭和22年6月には更生施設の認可を受けていたが、司法保護団体ではなかった。

吉村敏男の畏友で、大阪刑務所に勤務する藤木康俊氏の勧めにより、昭和23年に司法保護団体 財団法人 大阪自彊館「和衷寮」を開設した。
「和衷寮」は、昭和26年7月に更生保護会 財団法人 大阪自彊館「和衷寮」になったが、昭和27年3月に財団法人 大阪自彊館が社会福祉法人に組織変更したことにより、8月に新たに財団法人「和光寮」を設立、更生保護会の「和衷寮」を、財団法人「和光寮」が運営する更生保護会 大阪自彊館「和光寮」へと変更した。更生緊急保護法、犯罪者予防更生法、執行猶予者保護観察法に定める満期釈放者、刑執行免除者、執行猶予者、仮出獄者、保護処分者が対象者であった。

昭和23年以来、82人まで定員を整備してきた
更生保護施設の「和光寮」であったが、
この後昭和47年に至って突如廃止を決断する。
理由は吉村敏男の高齢化と財団法人の
後継者不在であった。
昭和46年には吉村靫生が理事長を継ぎ、
母体事業である社会福祉法人 大阪自彊館は更生施設
「自彊寮」と救護施設「白雲寮」を運営していた。
昭和45年の第9次西成暴動を契機に
両施設の収容が常に800人を超える状態となり、
設備と人的要件から更生保護会の運営が困難に
なっていたことも理由の一つであった。
すでに昭和39年8月には、八尾隣保館 理事長であった
中村三徳が90歳でその生涯を閉じていた。

そして昭和50年9月、吉村敏男が
82歳で亡くなった。

「志ぐれして あべのは近く 
またとおく」

81歳で敏男が詠んだ句が、辞世の句となった。
こうして、大阪自彊館の一つの時代が終わった。

昭和50年代〜平成初期

4

あいりん地域との格闘

あいりん地域と向き合って―夜回りから街づくりへ

社会ニーズに合わせた施設の開設ラッシュ

昭和22年、更生施設の認可を受けた大阪自彊館は、昭和27年から新生活保護法による更生施設「自彊寮」を運営、昭和29年には「和光寮」退所者への住居提供のための宿泊保護施設「向上寮」、昭和33年から生活保護法による指定医療機関「大阪自彊館診療所」を開設、昭和38年には吉村靫生が本館施設の鉄筋コンクリート造への施設近代化を進めている。
「自分の力で返せない借金は嘘と同じで悪徳である。」とする父の敏男に対し、施設利用者の増加とともに時々起こるボヤ騒ぎに、「建物の近代化と不燃化が必要」と唱えて説得したのであった。

昭和40年に鉄筋コンクリート造4階建2期工事が完了し、新寮舎が開設され利用者数が増加すると、養護や指導といった異なるサービスを必要とする利用者が増加、「分類収容」という形をとるよう大阪市から指示があったため、昭和40年11月に更生施設「南山寮」(定員210名)を開設した。
その後、「南山寮」は昭和42年に結核治療後の保護施設となり、同年7月には、障害や疾病により日常生活が困難な人々をサポートする救護施設「白雲寮」を開設、更生施設「自彊寮」に入所していた利用者のうち、病弱者や高齢者70人あまりを移籍した。

また、この年には労働大臣 早川 崇氏が大阪自彊館をご視察、その後に労働省、大阪府労働部から簡易宿泊所の建設について数次にわたり申込みを受け、本館建物横に雇用促進事業団の簡易宿泊所建設を受諾、更生施設「南山寮」を自彊寮に吸収合併して廃止し、昭和44年に有料簡易宿泊施設「南山寮」を開設、昭和47年2月には宿泊保護施設「向上寮」を併合して「南山寮」に一本化した。「南山寮」は昭和59年に事業を廃止したが建物は全面改装し、白雲寮内の精神障害寛解者を主な対象者とした、救護施設「甲子寮」として再生させた。

昭和47年度には身体障害者福祉法で身体障害者療護施設が新制度化されたため、昭和48年に身体障害者療護施設「今宮寮」を開設した。
また、保護施設への入所者激増に対応するため、大阪市が家族寮である「市立 愛隣寮」を救護施設に転用、大阪自彊館に運営を要請してきたため、昭和50年12月には救護施設「愛隣寮」を開設した。そして、昭和49年から「白雲寮」において行われていた、アルコール依存症者への特別指導対策「あすなろ会」を昭和56年11月に「愛隣寮」へ移し、断酒プログラムに沿った特別支援を、平成27年に施設が閉鎖されるまで継続した。

「あいりん地域」への対策

昭和50年代当時の「あいりん地域」では約18,000人の日雇労働者が生活し、毎日約100人の野宿者があり、年間100人前後のホームレスの人たちが、衰弱などにより路上で死亡していた。年末年始には大阪市による大掛かりな越年対策事業が行われるが、寒空の下で亡くなる人は減らなかった。

大阪自彊館はこの問題を何とかしようと、昭和57年12月から週2回、22時から「あいりん地域」での夜間巡回相談を始めた。深夜のパトロールにより、地域内の野宿者一人ひとりに声掛けを行い、体調不良者や衰弱者を救済保護し、福祉事務所や大阪市立更生相談所を通じて生活保護や施設入所へつなげる「呼びかけ保護」を行ってきた。この夜間巡回相談は、「あいりんの無宿者救済を考える・ツケを年末に回さない」をスローガンにして、地区社協・更生相談所・警察・社会医療センター等にも協力を働きかけるという、吉村靫生の考えによるものであった。

「平素から同地域に対する組織的、抜本的な対策がされていないために、越年対策事業の保護対象者も年々増加し、臨時宿泊所もパンク寸前に追い込まれる」という靫生の考えは、日常的な無宿者根絶の救護活動とともに、新しい救護施設の建設という形につながった。この建設計画は様々な問題を解消しなければならず紆余曲折したが、発案から10年を経た平成2年2月に救護施設「三徳寮」、8月に「三徳寮生活ケアセンター」の開設として結実した。

平成中期〜令和

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地域の変容と新時代への模索

変わりゆく街、変わらぬ志―新時代への模索

湖西3施設の拡充

昭和52年12月、社会福祉法人としては日本初の生活訓練センターが滋賀県高島郡今津町に誕生した。今津浜生活訓練センター「さわやか荘」である。保護施設に在籍する利用者に対して数泊の生活訓練を行うことで、社会的な生活習慣を身に着けるとともに、美しい自然環境の下での様々な活動により、浩然の気を養ってもらうことが目的であった。このセンターを足掛かりに、大阪自彊館と滋賀県高島市とのつながりは深まっていく。

昭和60年7月、「さわやか荘」を救護施設に転換、その後平成5年8月に救護施設「橡生の里」、平成8年7月には救護施設「角川ヴィラ」を開設した。
「さわやか荘」は琵琶湖の湖畔近くの平野部にあるが、「橡生の里」と「角川ヴィラ」は周囲を緑に囲まれた福井県との県境近くにある。湖西3施設は、広大な農作業用地を利用しての米・野菜作り、陶器の制作や和紙の紙漉きなどの作業訓練に勤しむほか、地域の環境整備のために、公園や施設の清掃・除草作業も訓練に取り入れている。
また令和元年には、過疎地での高齢化が進む地域のニーズに向き合い、共助関係を保つための公益事業の一つとして、「角川ヴィラ」敷地の一角に、外来診療も行う「角川クリニック」を開設した。

東淀川区を新拠点として

阪神淡路大震災のあった平成7年の6月、大阪市東淀川区に特別養護老人ホーム「ジュネス」、障害者支援施設「エフォール」、高齢者・障がい者を対象としたデイサービスや在宅支援のためのサービスステーション「べラミ」、就学前の児童を対象としたおもちゃ図書館「オズの家」を含めた総合福祉施設「メゾン リベルテ」を開設した。「リベルテ」は「自由」、「ジュネス」は「若さ」、「べラミ」は「良き友」を意味する。
開設当初、平成7年度の「ジュネス」事業計画で示した方針は、「生命に息吹を! 生活に楽しさを! 生涯に若さを!」をモットーに、高齢者が培ってきたもの、積み上げてきたもの、現存しているものに息吹を当て活性化を図るとした。「エフォール」の方針では、利用者が可能な限り家庭的な生活を感受できる生活を送れることを目指した。現在も祭りや行事などを通じて地域住民の方々との親交を深め、活発なボランティア活動を受けながら、地域に根差した施設づくりのため、ホームヘルプサービスや居宅介護支援、地域総合相談窓口、ボランティアセンター、見守りキーホルダー事業などを展開している。

あいりん地域の街づくり

大阪自彊館の事業展開は試行錯誤の連続であった。社会福祉の重要さは誰もが認めるところであるが、いざわが身に迫ると様々な理由から受け入れを拒絶され、「総論賛成、各論反対」の壁に何度も行く手を閉ざされた。一方、社会的弱者と言われる人達を直接応援する団体からは「反動的」として批判された。
こうした板挟みの、窮屈な状況を何とか打開したいと考えていた吉村靫生理事長は、あいりん地域の街づくりのため、地域団体・運動団体・行政が一堂に会して話し合う場を立ち上げる機会を得た。

あいりん地域の労働者を支援する活動団体から「何でもかんでもただ反対しているだけでは埒が明かない。行政を含めて他の団体とも腹を割った話し合いがしたい。」という話を持ち掛けられたのである。大阪自彊館は元より、地域の町会や支援団体、行政も、元々「あいりん地域の環境改善と野宿する人達を無くすこと」を望んでおり、そのためには仕事を作って就労の場を作ることが必要だということで意見が一致した。

こうして靫生が「呼びかけ人代表」となり、平成11年6月に「わいわいがやがや会」(略して「わいがや会」)が開催された。振興町会、民生委員協議会、社会福祉協議会などの地元関係団体、PTA、簡易宿泊所組合、地元商店会などありとあらゆる団体から代表者が集り、オブザーバーとして大阪府、大阪市からも担当者が出席した。民間主導の呼びかけにより、これまで反目し勝ちであった複数の団体が初めて一つのテーブルに着き話し合ったということが画期的なことと評価され、後に「対立的諸集団同士の非コミュニケーション状況をコペルニクス的に改善した」と評価された。

平成11年7月、「わいがや会」のメンバーは栃木県のごみ資源化センターを見学し、その足で厚生省を表敬訪問して社会・援護局長と面談、ソーシャルインクルージョンの理念から、「あいりん地域」をフィールドとした「日本型CAN」設立の動きへのきっかけとなった。

本館施設老朽化対策・施設の移転

大阪自彊館「萩」

平成13年4月に吉村靫生は理事長の座を退き、長男の和生が後を引き継いだ。西成区天下茶屋の「本館」と言われる建物は、昭和40年に鉄筋工事化を終えて既に50年を経過し、設備の老朽化と将来予測される大地震に対する耐震強度の不足による建て替えという問題が浮上していた。本館にある「白雲寮」、「甲子寮」、「今宮寮」、「診療所」と本部機能を大阪市内あるいは西成区内に丸ごと新築することは、土地や資金の調達からして不可能なことであった。和生は本館周辺に施設を分散できる土地探しを行い、西成区天下茶屋北に適地を確保して建設に取り掛かったが、平成27年10月、建物の完成を目前にして病に倒れて急逝、その後を常務理事であった川端 均が理事長を引き継ぎ、平成28年3月に7階建てビルを竣工した。「今宮寮」を「いまみや」、「甲子寮」を「ひきふね」に名称変更し両施設を移転させ、建物全体を「大阪自彊館 萩」と命名、利用者個々の目標やニーズに応じたサービスの提供を続けている。

救護施設「じきょう」

「甲子寮」と「今宮寮」の移転は完了したが、利用者240名を擁する救護施設「白雲寮」が残されたままであった。本館近くで定員240人の施設を移す代替地はなかなか見つからなかったが、ようやく「三徳寮」、「大阪自彊館 萩」、「大阪自彊館・本館」の建つライン上に土地が見つかった。いずれの施設にも徒歩圏内でつながる立地条件である。こうして令和4年6月に定員180人の救護施設「じきょう(JIKYO)」が誕生した。「自彊」の名は、昭和22年に更生施設「自彊寮」として、法人内では家族寮「向上館」に次ぎ二番目に使用された、法人としては由緒ある名称で、平成17年に更生施設「自彊寮」が廃止されて以来17年ぶりの復活である。白雲寮時代から引き継いで、先ず施設に入所することで生活の基盤を整え、就労や地域生活移行などの自立を目指せるように、利用者を支援している。

変わりゆく「あいりん地域」と
大阪自彊館の未来

大河につながる岩清水の一滴のように、明治の時代に発せられた「何とかせにゃあ」の一言から誕生し、釜ヶ崎・あいりん地域と100年以上の関わりを持ちながら成長してきた大阪自彊館であるが、社会福祉基礎構造改革により変化してきた社会福祉法人の在り方と同様に、あいりん地域も大きく様変わりをしている。
 朝夕に、軒の低いあちこちの一膳飯屋の換気扇から吐き出される、めざしを焼いた青白い煙の匂いや、漂う焚火のきな臭さ、仕事にあぶれ、道端に車座で酒を飲む労働者の姿、こうしたカオス的な風景も過去のものとなった。大阪自彊館本館と同様に、昭和45年に建設され50年以上となる「あいりん総合センター」も、平成31年4月に老朽建て替えのために閉鎖された。センターについては様々な立場からその在り方が検討されているが、昔のような「寄せ場・寄り場」としての機能が残るかどうかは分からない。
令和2年12月には、元々あいりん総合センター内にあった社会福祉法人 大阪社会医療センター附属病院が、萩之茶屋小学校跡地に移設された。来院者数のうちまだ8割は生活保護受給者であるが、無料定額診療の対象者は1割程度になった。新病院は地域住民や子育て世帯も利用できる明るい病院を目指している。

ドヤと言われた簡易宿泊所も次々と冷暖房完備のシティホテル風に建て替わり、街中を様々な国の言葉が飛び交い、外国人観光客がスーツケースを押して歩く姿が普通になった。
早朝から寄り場へ行く日雇労働者も居るには居るが、手配師を通さずに直接仕事をもらう「顔付け」の労働者は、携帯電話で直接連絡を取る時代に変わった。しかし、西成区は全国的に見ても生活保護率や結核罹患率が高く、高齢化が進み、子育て層となる若い世代が少ないといった課題が残されている。平成24年2月に大阪市は西成区特区構想プロジェクトチームを設置、西成を変えようと動き始めてから、これまで三期にわたり様々な特区構想事業に取り組んでいる。
地域活性化のため、行政主導型で新今宮Rプロジェクト(地域密着型エリア リノベーション ビジネス促進事業)として、空き店舗などの再生を促す「提案型地域ストック再生モデル補助金交付事業」なども進められてきた。あいりん地域に近い新今宮界隈でも再開発による街づくりが始まり、長年遊休地であった土地に外国人向けの就労訓練施設がオープン、令和4年4月には大手リゾート会社が手掛けるホテルが完成し、一般の観光客や家族連れが利用している。

これまで特別な目で見られてきた
「あいりん地域」だが、ここには潜在的な
ビジネスチャンスがあると言われる。
この特性を逆に多様性のある地域・社会として
捉えてみると、確かにその懐は大きく、経済的に潤う
可能性が埋もれている場所といえるかも知れない。
このまま発展が進めば、「あいりん地域」という
特殊な受け皿も無くなるのであろうか。
居住支援に関しては、これまでの施設での保護よりも、
生活困窮者自立支援や賃貸住宅の供給を促進する
「住宅セーフティーネット法」による
保護が優先される時代となってきた。
こうした人々の行方次第で、今後の救護施設の
在り方も検討が必要となっている。
大阪自彊館では、制度の狭間で困っている人々を救い次につなげるため、地域における公益事業として、伴走型で支援する「緊急一時保護所」を開設した。

移り変わりの激しい世の中、
「施設存在の意義」を常に自らに問いかけ、
様々な形に姿を変えながら、
ここまで歩み続けてきた。
しかし、形は変われども、「自彊不息」の理念「天行健なり。君子は自彊息まず」、
そして戊申詔書の戒め「よろしく上下心を
一にして…華を去り実につき、荒怠相戒め
自彊息まざるべし」
の精神を、
我々大阪自彊館職員は忘れたことがない。
悩める人が目の前にいる限り、
力の限り生きようと、心優しく
手を差し伸べる思いは永遠に消えない。

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